Rupprecht Weerth (AKA PACHA)インタビュー

AKA PACHA のリーダー、Rupprechtさんにネット・インタビューを試みました。いくつかの私達の疑問を解き明かす、興味深い内容になっております。





質問1:最初にAKA PACHAのアイデアをひらめいたは誰ですか?

『1985年に行われたルパイの最後となるツアーの際、マリオと私が思い付きました。』


質問2:LOS RUPHAYは、年を追う毎に次第に伝統音楽の色彩を強めて行きました。マリオがAKA PACHAの音楽を着想したのであれば、いかにして彼にこの全く異なるアイデアが浮かんだと考えられるでしょうか?

『'70年代の初めマリオは"MUYOJ"という名の新しいスタイルの音楽を生み出しました。最初、彼は4曲入りのレコードを録音しました。彼はギターを演奏し、LUCHO CAVOURがケーナ、後からBASILIO HUARICHIがチャランゴを加えました。そしてMUYOJトリオはケーナ、チャランゴ、ギターという編成で生まれました。後にケーナはRICARDO MENDOZA、GOYO CESPEDESへと変わりました。1985年、ルパイのツアーの際、マリオと私はこの初期の"MUYOJ"時代を思い出していました。そして我々はSICOYAS, SHILLI CONDOR, LA LLEGADAといった古い"MUYOJ"を演奏し始めました。
同じく、マリオはバロック音楽、とりわけヨハン・セバスチャン・バッハの大いなる崇拝者でした。私もそうです。そこで、我々はチャランゴをチェロに持ち替えた"MUYOJ"のスタイルでのアンデス音楽とバロック音楽との出会いを夢想したのです。』


質問3:マリオの在籍していた当時と今のAKA PACHAとの間に大きな音楽的な違いがありますか?


『いいえ、当時と今の我々の音楽はとても似通っています。QUIMSA PACHANACAで唯一違っていた事と言えば、JALLU PACHAのギターがハープに変っていた程度です。ACHACHILASもそうです。しかしながら、我々(現メンバー)の手によるものは新曲です。マリオ在籍時はサンポーニャもチャランゴも使用せず、ケーナ、ギターとチェロの三種類の楽器しか使用しませんでしたが、現在はもう少し楽器を使いますが、全体のスタイルはほんの少ししか変わっていません。』


質問4:マリオの死は突然の出来事でしたか?それとも彼は自らの死に備えていたのでしょうか?この音楽と彼の肉体の衰えに相関関係はあるのでしょうか?

『それは突然の死でした。しかし、かれはそれを無意識に感じ取っていたのかもしれません。
(亡くなる)一週間前、彼は私を訪ねてきて、彼の全生涯について、かつて無いほど語ってくれました。恐らくQUIMSA PACHANACAにはある種の悲しみが存在します。しかし、真相は誰も知りえません。』


質問5:彼がルパイとしての活動を止め、AKA PACHAとして活動し始める間に執筆したという"EL HUERFANO COSMICO"と題された書物について教えて下さい。

『これは、新しい世代の欧米人に向けた、人間関係におけるアイマラの伝統についての書物です。"EL HUERFANO COSMICO"(宇宙の孤児)は両親や自然との互いのつながりを絶ってしまった新しい世代の人類です。この本は哲学書でもあり物語でもあります。』

おわり